「だらけきる」生活

2026年10月08日
今週の月曜日から「だらけきる」をテーマにして生活している。

月曜日の午後、仕事の合間に散歩をしていると、
ふと「いろいろ、イヤになっちゃったなぁ」と思った。
それがきっかけだ。それならもう「だらけてしまおう」と思ったのである。

始めは今週だけと考えた。
だが、それだけではどうも潔くない。そんな気がして今月は「だらけきる」月間にしようと決めた。


とはいえ、仕事もしているし、論文も読むし、読書もしている。スロヴェニア語も始めた。
私なりの「だらけきる」の象徴は「社会の情報を積極的に取りにいかない」というところにある。
平たく言えば、ソーシャルメディアを一切見ないということである。

人に話すと、「それはだらけていないでしょう」と言われる。
あくまで、私にとっての「だらけきる」だから。

ソーシャルメディアに触れるとどんどん情報が入ってきて、それについて考える。考えてしまう。
それではだらけていない。むしろ相当頑張っているのではないか。そう思った。

内田樹さんが『レヴィナスの時間論』の中で《「おのれのあるべき姿と現状の乖離に苦しむ」という文型でしか自分の不具合について語ることができないおのれの無能に対する倦厭感》と書いていた。
《「そういう定型的な文で自分のありようを語ることにうんざりする」というところから始める他ない。》と。

ここまで書いて、それを思い出したので残しておく。


【参考文献】
内田樹 『レヴィナスの時間論 『時間と他者』を読む』(新教出版社)
https://www.shinkyo-pb.com/books/%E3%83%AC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%99%82%E9%96%93%E8%AB%96/

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